聖なる推しへの狂詩曲

ラブすぎる 詠んじゃおうかな、和歌とかを

遠征オタクのアフターファイブ

新卒1年目。絶賛、研修期間中。ど平日の終業24分後、オタクは新幹線に飛び乗ったところだった。

入社4日にして、弾丸遠征で推しの個イベに駆けつけ、リクスーでチェキを撮る。そんな未来を、誰が想像できただろうか──

 

地方住みオタクの受難

弊社の定時は早めである。その名の通りにアフターファイブを満喫できる。平日でも仕事終わりに現場に行けちゃうかもしれないね、と考えてはいた。

 

然れども、はたと思ひ及ぶ。

我地方住みなり、と。

 

平日開催のために開演時間は平常よりも遅めに設定されている。とはいえ、推しの活動拠点には新幹線に乗って行かねばならない。

弊社は入社後6ヶ月間は有給休暇が支給されない。これは入社前から分かっていたことで、当分は平日現場を欠席するしかないと言い聞かせていた。

就業中の昼間なら仕方ないと思えるが、とっくに終業している時間のイベントを大人しく諦めるなど、このオタクが許容できようか。推しのソロイベント開催のお知らせを受けたら、まずは行くことを前提としてものを考えるのがオタクの筋というものではなかろうか。

 

そこで再びふと思い出す。

 

学生時分、いわゆる野外フェスみたいな夏のイベントに、陰キャのくせにぼっち参戦したことがある。

大学の夏休みが世間と少々ズレているばっかりに、翌日の1限には試験を控えていた。しかも、真面目に取り組んでも驚くほど分からない意識が高い系講義の、である。

熟考の末、試験対策の資料を持ち、着替えやグッズを入れたキャリーケースをがこがこ引きずって弾丸遠征するに至った。転換中はフェス飯などに目もくれず、難解な文章と睨めっこした。好きなことを優先したから落単したとかいうネガティブな因果を結ぶことだけは意地でも避けたくて必死だった。

ヤコバで朝帰りし、そのままキャンパスに直行して試験を受けた。こんがりと日焼けをしてキャリーケースを携える様はさぞ夏を謳歌し浮かれている風に見えたことだろうが、結果として単位は取得できた。自慢でもなんでもなく、学生として当然のことである。

 

無茶な遠征をこなす素養はある。いやしかし、時間に余裕がないというのはオタクがどうにかすればどうにかなる話ではなくないか。

では仕方あるまいと、すんなり諦められるかって聞くのは野暮ってもんだ。大人しく引き下がる奴ァは世間様に言わせりゃ物分かりがいいって言うんでしょうが、オタクってのはそんなヤワな根性をしちゃいねえ。

 

そういえば、アルバイトでえらく志の高い人物に出会ったことがある。ひっつめ髪にびしっとスーツを決めた彼女はわたしよりも幾分か歳上に見えた。どっしり構える佇まいには、新人さんとは思えぬ貫禄もあった。

出勤メンバーで最初に行うミーティングの最中。手短に業務の概要をさらったリーダーが、「大体こういうことをやってもらう予定なんだけど、できそうかな?」と声をかけた。彼女は真っ直ぐ言う。

 

「できるかできないかではなく、やります」と。

 

和気あいあいとやっている雰囲気に突如ぶち込まれた、就活面接大正解回答にわたしはついどん引いてしまったが、有給など未だない入社4日目に推しの現場が決まった瞬間、その言葉が背中を押したのである。

 

行けるか行けないかではなく行くのだ、と。

 

オタク、華麗に解決

行くと決めたら行く手立てを考えねばならない。

有給はない。加えて、研修を抜け出すとかいう主義に反する反則技を封じて、である。

この成功如何によっては、今後も同様のイベントに有給を消化せずして参加できる道が開けるかもしれないのだから、かなり真剣にもなる。

オタクは有給の使いどころを極めてシビアに判断する必要がある。使わずに済むのなら使わずに現場へ行き、後の絶対に休まねば赴けない現場に備えておきたいからだ。

 

終業から開演までは2時間15分ほどある。そして、地図アプリで調べた職場から会場までの所要時間が2時間15分。理論上は可能?

いやいやいや、単純な移動時間だけを見て「う〜ん、行けるね!」で済ませられる問題じゃあない。今後のことを考えると着用義務のある制服から着替える時間も考慮しなければならない。さらに電車や新幹線の発着時間を加味すると、どうしても開演後の到着となってしまう。

 

地図アプリの想定を覆し、開演時間にどう間に合わせるか。そこにオタクの手腕が試される。

時刻表と睨めっこし、何遍もシュミレーションを重ね、開演時間までに辿り着く方法を確立する。

 

長考の末に導いた結論は、とにかく走る!

 

い〜や、原始的解決!

 

歴戦のオタクは後に振り返る。

「あの頃のアタシはですね、電車だのなんだのって言い訳はしたくなかったんですよ。もうアタシ次第だって覚悟が決まっていたもんですから。心の中にダッシュ3箇条──アフターファイブで遠征する際の心構え──を掲げて走っていたわけです」

そのダッシュ3箇条を特別に教えてもらった。

 

一、終業後即、席を立って更衣室にダッシュ!

二、着替えたら、会社を出て駅までダッシュ!

三、乗り換えて、新幹線に乗るまでダッシュ!

 

とにかく、ダッシュ! ダッシュ! ダッシュ!

 

地図アプリの提示する所要時間はあくまでも目安である。それだけを見て無謀だと諦めることはない。

出発地点から目的地までを一括で調べることからやめてみよう。会社の最寄駅から乗り換え駅、乗り換え駅から新幹線に乗る駅までの時間と、新幹線が発車する時間を分割して調べると勝機が見えてくる。

なぜなら、大抵の地図アプリにおける徒歩移動は文字通り徒歩を想定しているからだ。ガンダは想定されていない。そこに時間を短縮できる可能性がある。

 

あとは、すべてが己の脚にかかっている。

なんのために太い足を育ててきたと思っている。

活かすべきはまさに今、この時……。

 

社会人になってみても推しのこと好きだった♪

思ったね、最後に己を助けるのは己の脚力だと。

 

推しにリクルートスーツでお目にかかるのは初めてだった。抜かりなく着飾ったおしゃれ着のオタクたちの間では、何の着こなしもないカチッとスーツはひどく浮いていた。場内監視のスタッフが堂々と客席中央に座ってちゃってますみたいな異様さだった。

しかし、この時の推しの衣装は奇しくもジャケットスタイル。広義のシミラールックの完成である。まさかリクスーが大正解コーデになるとは思いもしなかった。

推しから寄せてきたのでは? と本気で疑うことはしませんが、オタクは思いました。気が合いますね♪ と。

 

仕事終わりに遠土はるばるやってきたこと、すんごい驚かれた。そりゃそうだ。わずか1時間のイベントのために倍以上の時間をかけて駆けつけるオタクはちょっと必死すぎる。若干引かれたかもしれないが、「気をつけて帰ってね」をいただきました。地方住みオタクの特権。地方に住んでいるというだけで負けているので、こういうところでしかマウントを取れません。

 

かけた時間、金額、労力以上の満足。行ってよかった。入社4日目にして、やりゃあできると気づきが得られた。無理だ、次の日も研修があるし……と諦めなくてよかった。

わたしは石橋を叩いて叩いて叩いた末に渡らないこともあるくらいビビリな小心者。そうでなくとも普通、研修期間中に遠征を企てようなどぶっちゃけありえない。

それが、企てるに留まらず、大胆にも実行しちまうってんだからたまげたもんよ。会社のことなどまだまだてんで分からぬ小僧風情が途轍もなく突飛なことをしたものだと、ひとごとのように思う。

推しへの好きという気持ちは、かように大きな原動力になり得るのだと驚かされた。

 

オタクは同じ轍を踏まない

まあ実のところ、開演に間に合ってはいなかった。

研修が長引いたために出発が出遅れ、ひとつめのコーナーの終わりかけで途中入場となった。(直近で出演した恋愛作品の振り返りとかいう、諸般の事情によりあまり聞きたくない話をスキップできたのは、不幸中の幸いと言うべきかもしれない)

 

それならば次こそは開演時間に間に合ってやるぜ、と野心を燃やすのがオタクの志というもの。

 

しかし次回は研修期間を終えているはずで、実務の場合は考慮すべき項目が増えてしまう。

ちらっと先述した通り、弊社の女性社員は制服の着用を求められている。研修期間にはなかった「着替え」なるロスタイムが発生することが確定している。

 

なんてことはなかった。その分、走ればいいのだから。

初回の遅刻以降、毎度きちんと間に合わせている。

終業後24分で新幹線に乗り、2時間15分後の開演に間に合わせるための極意は何だっただろうかと振り返りつつ、在りし日の遠征の思い出を記しておこうと思う。

 

なにげなく、日常に擬態す

社内ではオタクであることをカムアウトしていなかった。明かしたところで得になることはなさそうだったから、わざわざ公言する必要がなかった。

社内の人だって、静かで地味なこの新入社員が、退社してすぐ新幹線に乗っているとは、遠い地でオタクをしているとは、ヤコバで帰ってきて出社しているとは、まさか思うまい。

そうなると、いかにオタク仕草を隠滅するかということが重要になってくる。終業後に現場を控えている時は特に、である。

 

すっと帰れるように、夜に外せない予定があると予め匂わておくのが得策と思えるが、現場仕様となると多少の気合いが入る。病院やら葬祭やら、やむを得ない用事のようには見えないかもしれない。「仕事をほっぽって遊びに行くとはけしからん!」と怒られが発生してしまう可能性を危惧して、メイクやお洋服はいつもよりちょっぴり丁寧かな? 程度に抑えておき、この後に何かあると気取らせないのが吉なのである。

 

何もないを装いつつも、1秒たりとも残業せずに上がらねばならない。定時が近づくにつれ、わたしは忍びのように動き出す。じわりじわりとデスク周りを片付けていき、終業時刻きっかりに席を立てるような状態にしておく。

あとはもう、終業前に急ぎの業務が発生しないことをとにかく祈るしかない。

一度、定時を十数秒過ぎたあたりに電話が鳴ったことがある。わたしはすでに席を立っていた。さすがに無視したらマズいと思って振り向くも、新人の残業絶許先輩に「出なくていい!」と背中を押されため、躊躇なくフロアを後にできた。以後、定時後の電話に怯えることがなくなった。ありがたい話である。

 

荷物は最小、わくわくは最大

荷物の準備から遠征は始まっている。

そう考えた方が用意をする気になるし、遠征期間が伸びてお得な気持ちになる。一週間前から用意を始めたら、一週間は遠征をしていることになる。(なりません)

 

仕事終わりの遠征となると、仕事用と現場用の荷物でかさばりがち。いかに持ち物をコンパクトにするかが大切になってくる。

絶対に忘れてはいけないのがイベントのチケットと本確用の身分証。それから、スマホ、新幹線のチケット、財布、クレカ、充電器。一応のペンライトと替えの電池。昨夜書いたお手紙。その他、お風呂セット、歯ブラシ、マスク、着圧ソックス……くらいなものだろうか。

いつも持参しているお弁当箱は荷物の邪魔になるため、こういう時はサンドイッチを作ったり、捨てられる容器にしたり、買ったもので簡単に済ませるに限る。

 

普段より多いと言えども、通勤バッグと、お弁当箱入れの代わりにサブバッグを持つだけで手練れの遠征は十分に可能である。

保険にと、あれもこれも持って行きたくなるものだが、荷物を減らすためのスローガン「お金さえありゃ国内ならどうにかなる〜念のためアイテムは大体出番がない〜」を肝に銘じておけば取捨選択がしやすくなる。

 

非・ガラスのくつで街を駆ける

制服から私服に着替えるとかいうロスタイムを経てオフィスを出れば、いよいよ脚力の出番となる。

この時、下るエレベーターを占領できたなら、屈伸や伸脚で準備運動を行っておくといい。怪我の防止はもちろん、これから走るぞ! の切り替えにもなる。

 

履きもの選びが命運を左右すると言っても過言ではない。

これは入社4日目のど平日遠征初回において、パンプスで駆けずり回った経験から得られた最適解なのだが、そんなにかわいいってわけではなくとも、とにかく機動力を重視した靴で行くのである。だって、ガチ走りするから。洒落っ気よりも辿り着くことの方が断然重要だから。

現場に赴くゥチがプリンセス(否、我々は常にプリンセスであるが)だからって、いくらなんでも現実世界の硬いアスファルトをスプリントするには、どうしたってガラスのくつはおすすめできない。

 

夕刻の街は賑わっている。仕事帰りの会社員やら買い物客の合間を縫って突き進むのは容易ではないが。

 

推しが待つ遠方の地へ、オタクは駆ける。

 

かぼちゃの馬車より速いけれど

目標にしていた出発時刻の新幹線がホームに止まっているのを確認し、座席についたところでファーストミッション・コンプリート。

ほっと胸を撫で下ろしてまもなく。新幹線は動き出し、推しが待つ(待ってない)地へ出立する。

その時の心地は、まるでお城の舞踏会へ赴くシンデレラのごとき夢心地である。つい先ほどまでガンダしていたとは思えぬ落ち着き様で、うっとりと窓の外の景色を眺める。都会の喧騒も、この時ばかりはきらきらしている。街ゆく人々に、いちいち優雅なお手振りをしてやりたくなるほどの余裕さえある。

 

そんなお上品ハイも束の間、無に耐えるだけの苦悶のお時間がやってくる。

 

初めは汗を拭って、切らした息と乱れた前髪を整えたり、混み合わないうちにお手洗いを済ませたり、メイクを直してみたりする。

お気に入りのアイシャドウやリップでおめかしすれば、終日労働をこなして草臥れた地味OLも多少は華やかになる。傍目で見れば、サイゼの間違い探し10個目くらいの分かりづらさかもしれないが、舞い上がったオタクのマインドはさながら、魔法で瞬く間に変身するプリンセスのそれである。

 

車内で手紙を書いていたこともあったが、推しへの揺るぎない愛をしたためるオタクの筆圧をもってしても新幹線の揺れには敵わなかった。心配になるほど筆跡が震えるため、やめた。

なけなしのできることと言えば、物販情報の再確認、荷物の整理、景色を眺める、地図を開いて位置情報を見つめては時速285kmで高速移動する己を自覚することくらい。あとはしきりに時間と睨めっこをするのみ。

移動時間ほど手持ち無沙汰なものはない。急いでいるのに何もできないということがもどかしくて仕方がない。車内で走ることで会場にいちはやく着ける仕組みだったらよかったのに。

距離の隔たりが悔しい。こうして座席に腰を下ろしているしかない間に刻一刻と開演の時間は近づいてくる。毎回、車内で開場時間を迎え、そして、気ばかりが焦るのである。

 

地方住みオタクは、交通費という点で他のオタクよりも経費がかさむ。実質、片道の交通費が2回、あるいは3回分のチケット代になるほどだ。

そこでオタクは一考する。

交通費なる必要経費の1/2か、それ以下の1/3で推しごとを楽しめてしまう環境は恵まれすぎているのではないか、と。オタクは推しに激しく感謝をした。いやでもさあ、額で言うと実質JRに積んでいるようなものなのは誠に遺憾すぎるけどな。

とかなんとか考えているうちに到着時間は近づいてくる。

まもなくの到着を知らせるアナウンスが鳴る頃には、サラリーマンらとともにドアの前で下車の待機をしておく。駅のホームが見えてくるといよいよ。足首を回しつつ、出走の姿勢を取るのである。

 

推しという接点なくしては、縁も所縁もない、この地。それが、今では住み慣れた街のよう。どのドアが階段に近いかも、改札の方向も、会場への最短距離も知っている。

 

大抵、開演3分前に会場に滑り込む。3分もあれば、手紙をスタッフに託すこともできる。

身なりを整え、開演前独特の緊張をうんと堪能する。走ったことによる鼓動とは別で、この時を待っていたと、このために生きてきたんだと、高鳴る胸を弾ませてその時を待つ──……。

 

1秒でも長くお城にいたい気持ち、わかるよ

どうしてこうも時は不平等なのかと問いたい。

労働している時間なんて、これは永遠か? とうんざりするほど長いのに、永遠を願ってやまない推しとの時間は、溶けゆく雪のごとく儚い。かと思えば、そんじょそこらのアベックが誓い合う永遠も結構すぐに終わってしまう。永遠とは、願うほどに遠ざかるものなのかもしれない。考えさせられる。

 

ごくごく僅かな刹那の喜びのために時間とお金と労力を賭ける自分を冷静に見つめて、時には切なくなることもある。

それでも、推しの活躍を拝めただけで、まして「気をつけて帰ってね」や「またね」などと言われた日には、オタクなんてたちまち報われてしまう。我武者羅に走ってきてよかったと思える。また遠征しようと意気込んでしまう。ゥチ、ちょろくてかわいいかも! 推し、いっぺん付き合ってみる?

 

些か調子づいてしまうほど、現場終わりはゴキゲン状態なのが常。同時に、否応なく日常に引き戻されてしまうのも事実である。

明日も労働だ。また疾走すれば最終の新幹線にはまだ間に合う。だからって、王子様に会えてほくほくした気持ちの乙女がそれをすると思うか? はは、そりゃナンセンスってもんだぜ。するわけない。余韻に浸り切っていたいだろ。

ここは推しが住まう土地。それはまさに聖地。1秒でも長くとどまりたいに決まっている。

 

足を向けるのは、駅とは反対方向の閑静な住宅街。そこには小さな銭湯がある。ゆっくりお湯に浸かり、現役の運動部よろしく走り込んだ脚を癒し、極楽気分でこの遠征を締めくくる。

時間に余裕があれば一杯引っ掛けることもあるし、気候の良い日には夜道を徘徊することもある。推しが歩んだかもしれない大地を一歩一歩踏みしめ、気持ちの良い風を浴びながら、時折聞こえてくるお国言葉に今ここに在る実感を抱く。現場そのものでなくとも、推しを目前にしていなくとも、五感で聖地を堪能する時間もまた乙というものである。

ここで過ごした短い時を思えば、何の縁もない街が愛おしく思える。その時の気分は、アルコールを摂取するにしろしないにしろ〝ほろ酔い〟の言葉が似合う、良い心地がする。

 

ヤコバの中、消灯ギリギリまで待って推しのブログをチェックすれば夢は終わらない。それでいて、夢じゃなかったとも思える。幸せってこういうことかと毎度思わされ、噛み締める。田舎の家族に伝えたい。お母さん、元気ですか。わたしは今、幸せです。

明朝、ねぼけまなこのまま急いで家に戻って、慌ただしく支度を済ませ、すぐさま再び家を出て、労働に対する憂鬱な気持ちとともに寂れた日々を送るなんて、この時ばかりはわたしとて考えない。どうかこのまま、魔法よ解けないでと願いながら眠りにつくのがお決まり。

 

あの頃から思うことひとつ、リニアはまだですか?

遠征が好きだ。いくらオタクが(推しに関することのみ)タフネスの塊だからって、走ったりヤコバで寝たりすれば当然疲れます。

それでもオタク、遠征を所望す。推しに会いたい。そのために走りたい。銭湯に行きたい。聖地を散歩したい。ヤコバで寝たい。うずうずしている。

 

推しに会うための手段としての遠征ではあるが、その土地ならではの食や非日常的な経験込みで遠征そのものも楽しんでいたように思う。

行ったことのない場所に行きたいし、ご当地のおいしいものを食べたいから、推しよ地方公演をやってくれないだろうかと思うことさえある。これを本末転倒と言う。(オタクは遠征を旅行にカウントするのをやめなさい。持て余した旅行欲を遠征で発散させようとしないでほしい。〜自戒を込めて〜)

 

イベントごとの自粛が続く昨今、遠征など以ての外! というあまりにも酷な時代を生きている。画面越しではなく、対面で推しに相見える日はいつになろうか。まずは軒並み中止になっているリアルイベントが当たり前に開催され、気がかりなく楽しむことができる世の中になることを願うばかりである。その時にはまた、思う存分遠征をしようと思う。

 

2020年某日 執筆

2025.12.17 遠征できる日常が戻ってまいりました

オタク、コーナーで差をつけたい

推しからもらった言葉は残しておきたい。推し被りへのマウントや牽制、オキニアピじゃなくて、自分のための感想を純粋に綴りたいだけ。その場が個人的な日記でなくてもいいじゃん。楽しくSNSやブログを運用するのもオタク活動の一つだと思うから。

しかし困ったことに、オタクってのは実に疑り深い生きもの。推しに言って/やってもらったこと(=事実)を文章にして残す(=記録)だけの行為に対しても、勝手に嗅ぎ取ってマウントだと決めつけてくることってよくある。それで監視されたり晒されたりするのは面倒だ。とすると何もかも言いにくい。言いたい事も言えないこんな世の中じゃ、𝑷𝒐𝒊𝒔𝒐𝒏……だ。

 

推しは平等を司る

前提として、オタクはみな仲良しではない。推しという同じアイコンを愛すだけの集合体に過ぎない。そこに縁だの絆だのを感じて互いを認め尊重し合う、心理的な繋がりを持つ共同体ではない。

例えば推しが特定のオタクを贔屓したり、オキニとしたり、オタク間の扱いに差をつけた場合には穏やかではいられない。推しのもとに集うオタクなる人々は熱狂的な分、少々扱いにくいきらいがある。推し被り同士の熾烈な争いに発展することは想像に容易い。

平等なふるまいによって無駄な衝突を避け、平和な雰囲気を醸成することこそ、オタクはもちろん、推し自身の心の平穏を保つためにも賢明であろうと思う。

 

その点、わたしの推しはすばらしい。

 

我が推しはオタクに極めて等しい態度でおられる、と心得ている。他人の接触を監視する趣味はないため、他のオタクにどのような対応を施しているかは実際のところ分からない。だが、界隈において他推しから見ても、推しは平等であると専らの評判である。

われわれオタクは誰かを特別扱いしない均一な対応を享受している。みな同じラインに立っているのだから争いの種はなく、心穏やかにいられるはずである。オタクたちはいつまでも推しを愛し続けました。めでたしめでたし。

 

とはいかないのが世の常、オタクの心である。

 

オタクは瞬足

オタクの中には、推しに良い対応をされたい・認知されたい・オキニになりたい・TOになりたいと思う者がいる。そうやって推し被りと差をつけたがるオタクのことを、わたしは勝手に「瞬足」と呼んでいる。

 

SNSで、推し被りの現場日記がふと目に入ることがある。そこに、少しでも他人より抜きん出ていたいという自己顕示欲が滲み出ている瞬足の存在は全然ふつうに観測される。推しは平等であるにも関わらず、である。

 

オタクは理論や理屈では語れない。推しの良対応が全プレだったとしても、各々が心の底から満足することも、必ずしも平和が保たれるということもない。

むしろ、平等を司る推しだからこそ、その人の特別になりたいという欲を掻き立てられてしまうのだろう。牙城が難攻不落であるほど攻略に燃える的なあれかと思う。皮肉だが、彼のあくまでも平等な態度が、かえってオキニアピを激化させ、醜いマウント合戦を生じさせてしまう発端となっているのである。

 

匂わせなど程度が低い

しかし思うのである。マウントをとるなどくだらない。実にナンセンス。余裕がないからこその行為だ。弱い犬ほどよく吠えるとはこのことだ、と。

 

迂闊な交際匂わせによるカノバレが発覚して炎上する輩を目撃する度、まだまだだねと思う。明らかに同一の壁紙やカーテンの映り込んだ写真を載せたり、服飾を共有したり、絵文字や言葉遣いを似せたりするのは安直すぎやしませんか。

そんなものはバレて燃やされる始末なのだから、回り回って好きな人を貶める行為になる。「実はアンチ? 没落を目論むが故の制裁だった──」的な大どんでん返しがない限り、誰の得にもならない軽はずみな言動は慎むべきだ。

お付き合いができて嬉しい気持ち、だいしゅきなかれぴをアピールしたい気持ち、この人には女がいると牽制しておきたい気持ち、よく分かります。しかしいっぺん落ち着いて考えてみてほしい。

安い煽りでオタクの反感を買うよりも、「知らないと思うけれど、わたし、実はみんなが好いてやまない彼の女なのですよっ♪」と心のうちで優越感に浸る方がよっぽど気持ちイイ。面倒は起こらないし、より高度なマウントになると思う。

 

マア、繋がりでもない一般オタクなので上記のように例えたとて仕方ないのだが、言いたいことは、わたしには「言わぬは言うにまさる」的なオタクマインドがあるということ。全てを明け透けにするのは粋じゃあない。沸いた旨はツイートしても、核心は言わずに胸のうちにそっとしまっておくのもオツなものですよ。

 

「この間と変わったところがあるんですけど、どこか分かりますか?」とか言って認知を搾取してくるオタクはめちゃくちゃだるいと思うから

推しは非常に分かりにくい人物である。分かりやすくて、分かりにくい。裏表がないため表情や言動で感情を察せることも多いけれど、ぐいぐい前に出るわけでも口数が多いわけでもなく、分かりにくい。というか、分からせてもらえない。分かる機会を与えてくださらないと言った方が正しいかもしれない。

 

その上、他人にあまり興味がない。オタクへの興味など以ての外である。そういうお方だから、接触でもホスピタリティ全開でループ大歓迎、話をリードして自主的に認知発言をするようなおもてなしで売っているわけではない。

(推しへの謁見自体がありがたいことだし、われわれオタクめがお伝えしたいことを静かに受け止めてくださるのだからそこに不満はない)

 

おまけに、基本的に細かいことに気づく推しではない。気づいたとて、わざわざ口に出す性分でもないことを知っている。

だから、髪を切ったとか、髪の色が変わったとか、メイクがいつもと違うとか、容姿の変化に気づいてもらえることを期待していない。触れられることを狙って、服装やネイル、アクセサリーにネタを仕込むなんてこともしない。そうやって気を引こうとする貪欲なオタクに、推しは引き気味になる気がしているから、彼の特別を勝ち取るのはかなり難しいことだと思う。

 

誤解のないよう言っておくと、推しは決して塩ではない。やる気はある。チェキの表情やお話する時の態度は通うほどに軟化していくし、初めましてみたいな顔は絶対にしない。彼の為人を知る限り、極めて真摯に対応している。

特別扱いはしてくれないけど、彼は優しい。わざわざ口にしなくても、彼は彼なりの方法で、オタクのことを少なからず思ってくれているはず。言葉足らずでも、必ずしも神対応と褒められなくても、きちんとオタクに向き合ってくれているってこと、わたしは知っている。

 

でたでた!

出ました! よっ! これぞ、お家芸!!!

厄介オタク特有の、「わたしだけはきちんと分かっているからね」ムーブ!

 

見晒せ、これがほんまもんのゥチや!

ええ、そうです。何を隠そう、結局はわたしも瞬足なんです。

 

他のオタクを貶めて自分を特別に仕立てたいなんて気持ちはない。だが、少しでも優位に立っていたいとは正直思っている。マウントをとるオタクをひとごとに解説し見下しておいて、自分もちゃっかりその土俵にいるのだからたちが悪い。

 

先述の通り、わたしには「マウントをとるオタクは程度が低い」って根底と「言わぬが金」って信条がある。だから、表面上はマウントオタクをひた隠しにし、違う角度から他者と差別化を図ることにしている。

つまり、「彼は一見すると分かりづらいし勘違いされやすいのだけれど、わたしからすれば分かりやすいひとなのよ」と、本質をさも知っているかのように一丁前に推しを語るとかいう手法をとる。ある種の後方彼女ヅラと近しきメンタリティと言えば分かりやすいだろうか。

あくまでもマウントではない体面を保つところがなんともいやらしいし、真っ向から挑めぬ腰抜けの戦い方に見えるかもしれないが、これは〝思うだけ〟で済む。表に出さずに完結するあたり結構妙案だと思うのだ。

 

オタクの世界でも出る杭は打たれる。そして、推しは平等でちょっぴり分かりにくい。他のオタクより優位を感じたいけれど、それは現実的に難しい。

ひっそりとどこかで差をつけるには、目に見えず、明確な尺度で測れないもので比べるに限る。

そうするとやはり、鼻につくオタクは心のうちに飼い慣らし、「わたしだけは推しのことをよく理解している」というスタンスをとるほかない。それならばわたしはイイ気分でいられるし、表面上は嫌なオタクにもならないはずである。

 

(瞬足さんは何も関係がない)

 

2020年某日 執筆

20250727 いまはべつにこうはおもわないふしもある

推しとわたしと、その他オタクと

以前、推しごとで挫折したことがある。

当時の推しと自分自身を思うと、今でもちょっぴり申し訳ない気持ちになる。そんなオタクの、ちっぽけな後悔と懺悔をここに記しておく。

 

オタクというか、ファンだった

学生の時分、お芝居に多少の興味があった。特定の役者や劇団を贔屓にしているわけではなく、ストレートでも小劇場でも2.5でも、気になる作品があれば気まぐれに観に行くくらいの趣味。個人的な事情でバイトに割く時間をさほど持てなかったが、元々、貯金とやり繰りが得意な性分ではある。少ない収入から娯楽費を捻出して、学生割引やU-25でお得に観劇するのが楽しかった。そのうちの一つ、おもしろそうと思って足を運んだ舞台に、彼は出演していた。

 

全く知らない人ではなかった。顔と名前を知っている程度の存在で、特段の興味は持っていなかった。それが、お芝居を一目見ていとも簡単に心を奪われた。

情報が氾濫しているこのご時世、気になる人のことはスマホひとつで簡単に調べられる。まず基本的なプロフィールを把握したら、手軽にブログに目を通す。記事を遡っていくうちに知る、仕事にひたむきな姿勢や真摯な言葉たち。為人を知ればこそ、この人のお芝居をもっと見たいと思うようになった。それから既出の円盤を入手しては彼の過去を振り返れば、瞬く間にどんどん虜となってゆく。気づけばわたしは彼のファンになっていた。

 

そうやって活躍を追っているうち、彼の飛躍を表すように公式のファンクラブが発足し、それに伴って記念のイベントが開催された。推し始めて間もなく、彼をより深く知ることのできる機会に恵まれたわけだ。

イベントは充実の極みだった。お仕事に対して真剣に語らう姿はもちろん、プライベートについて話す楽しげな様子まで見ることができた。さらに、勝手に好きでいるわれわれに対してまで懇切丁寧な感謝を示してくれた。束の間に推しの様々な表情を拝見することができ、非常に有意義な時間だった。

しかも、それだけでは終わらない。推しはサービス精神の権化らしかった。チェキ会なる催しがあり、推しとお写真を撮り、握手し、お話できるとか言われた。そんなのってありなんだ。

いわゆる「接触」に免疫のないわたしは、あまりの緊張に今世紀最大のパニックを起こした。ひどく挙動不振だったはず。それでも推しは優しく温かく迎えてくれた。うまく紡げない言葉を汲み取ろうときちんと耳を傾け、まばゆい笑顔でお話してくれた。人柄まで圧倒的に出来ている。

推しはステージの上でスポットライトを浴びているから眩しく見えるわけじゃない。目前にした推しもきらきらしている。推しはいつだって等しく輝いていることを知った。えーん、だいすき。となった。

 

そんな対推しの思い出は、どの瞬間を切り取っても幸せな記憶ばかりだ。

 

それならどうして他界したの? って感じだ。

燃えた? 結婚した? それとも飽きた?  

って、真っ先に推しの非を疑うじゃん?

 

それがまさかの全て否、である。

今も好きだ。過去の映像をよく見るし、また現場に行きたいとも思う。全然ふつうに。

じゃあなんでだよ! というつっこみへ簡潔に答えるとすれば、推しのオタクと自称するには不甲斐ないと思って、いっそ、やめてしまったのだ。

 

推しのオタク失格

先述した通り、自分の懐事情が寂しいことをよく理解していた。それと、座る席にこだわりはなく、同じ作品を繰り返し見るよりはさまざまな作品から刺激を受けたいというスタンスだったのもあって、お金の使い方にはセーブが効いていた。

ところが、推しのオタクの方々と繋がるようになって考え方ががらりと変わった。現場に通い詰めてこそ、お金を積んでこそというイデオロギーに支配され、「お金がない」や「時間がない」なんて言い訳は甘えであり、そんな言い逃れは通用しない世界であると植えつけられた。

現場で声をかけてくださる方の「明日のマチソワも来るよね?」って出席確認や、チケットはプレミアム(値段が高い分、前方エリアを確約された座席)で、最前もしくはより前方の席を手に入れるために、1公演につき複数枚のチケットを発券するのが当たり前という風潮にいちいちプレッシャーを感じ始めた。

無理のない範囲で推すべきと心得ていても、チケットが余っているのに買わないこと、グッズ厨じゃないからってグッズを揃えないこと、通えない自分に不甲斐なさと恥ずかしさを覚え、推しに申し訳なくなった。

 

現場に通って、お金を積むこと。

それはオタクの使命で、推しの活動のために欠かせないことである。推しを応援したい、推しに貢献したいという気持ちはあるのに、わたしはそれを実績として表明できない。形のない気持ちだけの「好き」が空虚なものに思えた。

 

チケットの1枚さえ追加しないくせに友達と遊ぶの?

立派なプレゼントを贈れないのに、自分のためには欲しいものを買うの?

それって本当に好きなの?

 

そうやって自分を責める思い込みが加速していく。

人付き合いもちょっとしたご褒美スイーツも躊躇い、講義の空きコマを潰すためのせいぜい数百円にさえ罪悪感が湧いて、推しごと以外の出費は極力控えるようになった。

しかし皮肉なことに、自分を追い込んだところで実際に通うペースを大きく変えられたわけではない。今振り返れば、あれはもはや推しに積むための節制ではなかった。推しに積めないから自分に使うことも憚られるという認知の歪みに侵されていたのだと思う。

 

しまいには自己肯定感も底をついた。みんな努力して通って積んでいるのに、わたしなんて……と落ち込んだ。途方もなく低い自尊感情のために、わたしのようなしょうもない人間が彼を好きだと言ってよいのかさえ分からなくなった。いけないことのような気がした。

推しに会いたい。でも、他のオタクに会うのも、お財布のやり繰りもしんどい。楽しいはずの趣味がつらい。推しにまつわることでネガティブな感情を抱くなんて最低すぎる。わたし、推しのオタクと名乗る資格なんてない。

そう思って、わたしは推しを好きなまま、オタクでいることを辞めた。楽になるための他界。約一年半、あまりにも短いオタク人生だった。

 

「オタクはかくあるべき」

被害者面を下げているが、完全に自己責任である。

誰に強制されたわけでもなく、勝手に苦しんで一人で自滅しただけのこと。

いやしかし、推しごとにおける推し以外の副産物で続けられなくなることって案外あると思う。どれだけ好きでも、純粋に推しだけを見つめるって意外と難しい。

事務所や運営のあれこれ、推し被りの存在、対オタクたちの付き合いやマウント、推しを知りたくて辿り着いてしまったスレ・愚痴垢の真偽不明の情報みたいな、そういう余計なことに惑わされて気持ちが揺らいだり、好きを見失ったりする。

不要な情報を遮断し、周囲に振り回されることなく推しだけを見つめることができていたのなら、きっと楽だった。もう少し長く推しのオタクでいられたかもしれない。そういう、どうにもならない後悔が今でも時々、渦巻いてしまうことがある。

 

わたしの経験によるわたしの見解で言うと、自己犠牲を払って積むのが当たり前という考え方や、他人と競い合うような推し方はわたしにとっては悪だった。わたしには向いていなかった。

だから、これも個人のお気持ちに過ぎないけれど、「推しごととはかくあるべき!」とか「オタクならこうして当然!」的な言い切りや決めつけを発信する推し活インフルエンサーを目にすると、うるせーと思う。

不健全な資金繰りに陥る前(やりくり上手な女の当時の口座残高は294円だった)に思い留まることができたのは幸いだったが、だからといって健全だったかといえばそうではないと思う。他人の尺度でものを見て、いちいち踊らされて疲弊するのは普通じゃない。一万円のチケットは買えるのに自分に使う数百円を出し渋る感覚はどう考えても、変。

ただ、こできちんと申しておくべきなのは、わたしが「変」とする感覚や自己犠牲によって生み出された「好き」の表出など、他のオタクたちの価値観やスタンスを否定するつもりは全くないということ。人には人の推しがいて、推し方も各人各様。みんな好きにやればいいと思う。

 

「推しは推せる時に推せ」

オタク界隈でよく目にする、格言めいた「推しは推せる時に推せ」なる文言。

それは限りなく真理に近いのだろうが、わたしなりに解釈すると、「推しは(推せる体力とモチベと、それに見合う資金を兼ね備えた上で、)推せる時に(惜しみなく、しかし無理なく)推せ」となる。

 

界隈柄かもしれないが、推しは気持ちひとつだけでは決して推してはいけない。より積んだ者がえらいから幅を利かせてよいとするのは違うと思うが、推し存続のために積むことが必要不可欠なのは事実である。

オタク趣味は経済だ。消費文化だ。オタクはオタクである限り、集金システムからは逃れられない。健康で文化的な最低限度の生活を送る他に使えるお金のゆとりと、現場まで足を伸ばす時間と体力と気力がなくてはならない。これら全てを長きにわたって維持させるのは、そう簡単なことではない。継続的に推しごとをしているということは、大袈裟に言えば、無数の努力によって叶えられた連続的な奇跡の上で成り立っている、とわたしは思う。

 

界隈が変われど、オタクの心容易には変わらず

わたしは懲りずにオタクをしている。もちろん、別の界隈に引っ越した今でも「積むが正義!」イズムのもと、推しを推している。痛い目を見たくせに懲りないとは嘆かわしいほどあわれではあるけれど、その思想に飲み込まれてはいないのだから以前とは違う。

というのも、オタクたちの年齢も性別もバラバラで、全通! 枯らし! 茶の間がものを言うな! という殺伐とした空気は(表面上)感じられない。そのためか、推しを推すペースがピンからキリまで自由度が高いように感じられる(元いた界隈もそうだったのに、あの時のわたしは視野が狭まっていたばかりに気づけなかっただけなのだが)。

過去の失敗から、他人と比較せず、自分の負担にならない範疇で楽しむことの重要性を学んだ。サステナブルなオタクであるべく、現場へ赴く頻度も推しへのお布施も、程度を弁えてオタク活動をするに落ち着くことができた。

 

それは、未だに他のオタクと繋がっていないということも大きい。現場で会える仲間がいたら待機列で退屈しなくなるし、感情を共有できて楽しいだろう。一人では、初めての会場やイベントシステムがどうだったのかは聞けないし、ランダム系のグッズを交換し合えない。こういう時に助け合える人脈があれば……と思わないこともない。

そんな不便があっても単番を貫くのは、圧倒的に気が楽だから。ノイズがない。面倒もない。推しだけを見つめるということが以前よりも叶っているような気がする。

 

大切にしていこうね

わたしは未来に不安のあるしがない会社員。しかも薄給のひとり暮らしなので、推しごとに対して思うがままには心血を注げない。学生時代のようにバイトのシフトを増やしたり、ゲリラのイベントに弾丸で遠征してヤコバで帰った朝、そのまま講義を受けに行ったり、推しに全てを捧げるような身の振り方もできない。

推しのオタクを自称するには非力だ。オタクヒエラルキーにおいては下層も下層だろう。

それでもわたしは憧れのコスメを買うし、多少値が張る食べたいものだって食べるし、お金と時間とモチベに困っていなくても、現場がある日に罪悪感に駆られることなく家でだらだらすることもある。

つまり、自分のために都合よく推しから余所見をしている。そうしたからって誰も責めやしないのだ。もっとたくさん注ぎ込めたら、ともどかしく思うこともあるっちゃあるが、わたしは今、楽しくオタクをしている。それで充分だと思っている。

 

積むが美徳と絶対的に捉える病的な推しごと思想から脱出したし、わたしはもう元推しのオタクではない。自分のスケジュールとお財布の都合を優先して、食指が動いた瞬間のみ気ままに現場に訪れてもよいのだ。そんな開き直りのおかげで、先日、元推しの活躍を見に行くことができた。

久しぶりに見た元推しのお芝居は、涙が出るほど素晴らしかった。本当に彼が好きだったと改めて感じさせられ、彼を推していたこと自体への後悔なんて一切ないと強く思った。だからこそ、わたしが弱くなければ、あの頃から今日にかけての彼の成長を見逃すことはなかったのだと考えると少し寂しい気持ちにもなった。

しかし同時に、また見に行こうと気軽に思えた。そう思えたことに心底ほっとした。彼に対する執着や歪な義務感は完全に消えたのだ。呪縛から解き放たれたことを実感し、そこでようやく本当の意味で成仏できた気がした。

 

やはり思う。推しごとはあくまでも娯楽として享受したい、と。

同じ過ちを二度繰り返さぬよう、あれらの後悔を省みて、今後の教訓にしていかねばならない。

わたしが現在進行形で推している人を大切にしていこう。それすなわち、自分のことも大切にするということ。それを忘れないようにしたい。

 

おわりに

学生時代に使っていた手帳の写真が残っていた。

To Doリストの先頭に推しのことが記されている。現実的な定期の更新や必要な書類の準備以前に、最も重要なこととして「推しに積むお金」を用意したいと考えていたらしい。見ての通り、この項目だけ線が引かれていない。推しに積むことに上限などないため、いつまでも完了することはないと分かっていたと思う。それでも、わたしはこれを叶えたかった。それは、永遠に達成できなかった。

 

2020年某日 執筆

20250712 いまはべつにこうはおもわないふしもある